Friday, July 17, 2015

純文学と大衆文学

今年も読書の夏がやってきた。
恒例の夏の100冊も各社から出そろい、芥川賞直木賞も発表された。
じわじわと読書熱が沸いているのを感じている。

さて、最近又吉が「火花」という本で芥川賞を取ったのが話題になっているが、一応純文学の範囲らしい。
純文学と大衆文学の違いの定義ってなんなのだろう?とずっと思っていたのでちょっと調べてみた。

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純文学
→純文学(じゅんぶんがく)とは、大衆小説、あるいは小説一般に対して、商業性よりも「芸術性」・「形式」に重きを置いていると見られる小説の総称とされる。

大衆文学
→大衆小説(たいしゅうしょうせつ)とは、純文学に対して、芸術性よりも娯楽性・商業性を重んじる小説の総称である。「娯楽小説」「娯楽文学」「大衆文学」は同義語。「通俗小説」「通俗文学」とも呼ばれた。

純文学には人の心の揺れ、人の心の悩み、人間の愚かさなどが描かれていて、また、登場人物は、捉え難さがある。一言では表現しきれない、人間の複雑さ微妙さがある。

一方、大衆小説の登場人物は、物語を進めるために、恣意的な性格設定がなされているように思えてならない。

やさしい人はやさしく、
いい人はよく、
悪い人は悪く
さびしがりやはさびしがりやに、
いじわるな人はいじわるに、
泣き虫は泣き虫に。

人間てそんな単純なもんじゃないんだけど、大衆小説は、人間というかキャラクターを、わかりやすく、画一的に、単純に、薄っぺらく、描いているように思えてならない。

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人に「誰々の本てどう?」とか聞かれた時によく私が使う説明
「映画見てるのと変わらない感じかな。娯楽の一種的な」
というのは遠くない感覚なんだろうな、と。
例えば東野圭吾とか有川浩とかの本なんかはそんな感覚。

でもじゃあ純文学っていうのはどういう分野かと聞かれてもわからなかった
太宰治とか?夏目漱石とか?三島由紀夫に川端康成とか???

調べてみたら間違ってもいないようだけど、驚いたのは結構現代作家の中にもいるということ。

そのラインてとても曖昧なんだろうなとは思うけど、例えば川上弘美とか、小川洋子とかが純文学に入っていておもしろいなと。

そこで思い出すのは、私のダークな時代、実家に引きこもってできることは読書くらいだった時に、かなりお世話になった著者達。

小川洋子、川上弘美はもちろん、西加奈子、宮下奈都、よしもとばなな、辻仁成、瀬尾まいこ、村上春樹、あたりは純文学と言っていい様な気がする。表面的なことだけでなくて、言葉の裏にもっともっと深い所があるような、読んだ後にTVやハリウッド映画や漫画の様なエンターテイメント後感とは違う印象を受けた記憶がある。

やわらかくて、しっとり、やさしい雰囲気としては似ているけど、小川糸、江國香織、梨木香歩、あたりはもうちょっとエンターテイメントな、そこに意図したラインが1本(おそらく1本のみ)通っていて、そこをなでながら進んでいる感じがするかも。

まあはっきりしないラインであることは間違いないけれど、私は現代の純文学に近いところが案外好きなのかなと思います。よしもとばなな的もしくは西加奈子的な本をいつも探している。またクラシック純文学もちょっとずつ手を出していきたいな。梶井基次郎の檸檬は難しくて断念、遠藤周一の海と毒薬は怖くて飛ばし読みしてしまったけど、川端康成の眠れる美女あたりから読んでみたい。